スカンディナヴィア連合王国

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ファイル:Ethnographic map of austrian monarchy czoernig 1855.jpg
1855年のオーストリア帝国民族分布図

オーストリア帝国(オーストリアていこく、テンプレート:Lang-de、当時の公式表記は テンプレート:Lang)は、1804年の成立から1867年オーストリア=ハンガリー帝国への改組まで、オーストリアハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」と呼ぶ)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家である。

前身のオーストリア大公国や、ボヘミア王国ハンガリー王国などの同君連合国家群だった時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク帝国と総称される。

厳密には第一次世界大戦敗戦までオーストリア帝国は存続しているが、本記事ではアウスグライヒまでを扱う。

概要

17世紀初頭から続いた三十年戦争を経て成立したヴェストファーレン体制によって、オランダスイスの独立、神聖ローマ帝国内の諸邦に自治権が与えられるなど、神聖ローマ帝国の権力は低くなった。また、この体制によって、カトリック教会プロテスタント教会が対等な関係にあることが保証され、宗教国家としての神聖ローマ帝国は権威を失うこととなる。さらに18世紀オーストリア継承戦争七年戦争などによって、神聖ローマ皇帝の座を事実上世襲していたオーストリア大公国自体の弱体化などが重なったことによって、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかとなった。

また、その後のナポレオン第一執政期において、ナポレオン戦争によってダメージを負ったハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がるオーストリア大公国を中核とする支配領域(ハプスブルク帝国)をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。

オーストリア帝国の時代の前半はナポレオン戦争とその後のメッテルニヒ時代であり、後半は1848年諸国民の春」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半である。この時代はまたドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か、「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動いていた。広大な非ドイツ人地域の分離を前提とする大ドイツ主義はオーストリアには迷惑千万であり、さりとて自らが統一ドイツから除外されてしまう小ドイツ主義も論外、非ドイツ人地域も包含した中欧帝国構想は時代遅れというトリレンマ状態にあった。1866年普墺戦争にオーストリアは完敗して大ドイツ主義も中欧帝国構想も挫折、最終的にオーストリアは統一ドイツから除外される。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ人に次ぐ大勢力であったハンガリー系(マジャル人)との妥協アウスグライヒ)を選択し、1867年オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が発足した。

なお、二重帝国の成立後もオーストリア帝国は第一次世界大戦に敗戦するまで存続している。「オーストリア=ハンガリー帝国」とは、オーストリア帝国と、アウスグライヒによってオーストリア帝国から形式的に独立したハンガリー王国とによる同君連合の総称である。すなわち、アウスグライヒ以後もハンガリー王国以外の領域は引き続きオーストリア帝国であった。

領域

主要年表

以後の歴史はオーストリア=ハンガリー帝国#略年表を参照。

脚注

注釈

<references group="注釈"/> テンプレート:参照方法 テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

  • 岩﨑周一『ハプスブルク帝国』講談社講談社現代新書〉、2017年。ISBN 978-4-06-288442-6
  • 加藤雅彦『図説 ハプスブルク帝国』(新装版)河出書房新社〈ふくろうの本〉、2018年。ISBN 978-4-309-76272-2
  • 渡辺克義『物語 ポーランドの歴史:東欧の「大国」の苦難と再生』中央公論新社〈中公新書〉、2017年。ISBN 978-4-12-102445-9
  • A・J・P・テイラー倉田稔訳)『ハプスブルク帝国 1809 - 1918:オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2021年。ISBN 978-4-480-51062-4

関連項目

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