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{{出典の明記|date = 2018年4月25日}}
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{{オーストリアの歴史}}
 
[[File:Ethnographic map of austrian monarchy czoernig 1855.jpg|thumb|right|290px|1855年のオーストリア帝国民族分布図]]
'''オーストリア帝国'''(オーストリアていこく、{{lang-de|Kaisertum Österreich}}、当時の公式表記は {{lang|de|Kaiserthum Österreich}})は、[[1804年]]の成立から[[1867年]]の[[オーストリア=ハンガリー帝国]]への改組まで、[[オーストリア]]の[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]](以下、単に「[[ハプスブルク家]]」と呼ぶ)が[[オーストリア皇帝]]として支配した多民族国家である。
 
前身の[[オーストリア大公国]]や、[[ボヘミア王国]]・[[ハンガリー王国]]などの[[同君連合]]国家群だった時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、'''[[ハプスブルク帝国]]'''と総称される。
 
厳密には[[第一次世界大戦]]敗戦までオーストリア帝国は存続しているが、本記事では[[アウスグライヒ]]までを扱う。
 
== 概要 ==
[[17世紀]]初頭から続いた[[三十年戦争]]を経て成立した[[ヴェストファーレン体制]]によって、[[オランダ]]や[[スイス]]の独立、[[神聖ローマ帝国]]内の諸邦に自治権が与えられるなど、神聖ローマ帝国の権力は低くなった。また、この体制によって、[[カトリック教会]]と[[プロテスタント|プロテスタント教会]]が対等な関係にあることが保証され、宗教国家としての神聖ローマ帝国は権威を失うこととなる。さらに[[18世紀]]の[[オーストリア継承戦争]]や[[七年戦争]]などによって、神聖ローマ皇帝の座を事実上世襲していたオーストリア大公国自体の弱体化などが重なったことによって、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかとなった。
 
また、その後の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン第一執政期]]において、ナポレオン戦争によってダメージを負ったハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がる[[オーストリア大公国]]を中核とする支配領域([[ハプスブルク帝国]])をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。
 
オーストリア帝国の時代の前半は[[ナポレオン戦争]]とその後の[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]時代であり、後半は[[1848年]]「[[諸国民の春]]」による[[ウィーン体制]]崩壊後の[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]時代前半である。この時代はまたドイツ近代国家の模索期で、「[[オーストリア皇帝]]を戴く[[大ドイツ主義]]」か、「[[プロイセン王国|プロイセン王]]を戴く[[小ドイツ主義]]」かで揺れ動いていた。広大な非ドイツ人地域の分離を前提とする大ドイツ主義はオーストリアには迷惑千万であり、さりとて自らが統一ドイツから除外されてしまう小ドイツ主義も論外、非ドイツ人地域も包含した[[中欧帝国|中欧帝国構想]]は時代遅れという[[ジレンマ|トリレンマ]]状態にあった。[[1866年]]の[[普墺戦争]]にオーストリアは完敗して大ドイツ主義も中欧帝国構想も挫折、最終的にオーストリアは統一ドイツから除外される。また[[1848年革命]]に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ人に次ぐ大勢力であったハンガリー系([[マジャル人]])との'''妥協'''([[アウスグライヒ]])を選択し、[[1867年]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]](二重帝国)が発足した。
 
なお、二重帝国の成立後もオーストリア帝国は[[第一次世界大戦]]に敗戦するまで存続している。「オーストリア=ハンガリー帝国」とは、オーストリア帝国と、アウスグライヒによってオーストリア帝国から形式的に独立した[[ハンガリー王国]]とによる[[同君連合]]の総称である。すなわち、アウスグライヒ以後もハンガリー王国以外の領域は引き続きオーストリア帝国であった。
 
== 領域 ==
*神聖ローマ帝国の一部とされていた領域:[[オーストリア大公国]]、[[ボヘミア王冠領]](チェコ)、[[ザルツブルク大司教|ザルツブルク公国]]、[[ケルンテン公国]]、[[チロル|チロル地方]]など
*[[オスマン帝国]]からの征服地:[[ハンガリー王国]]の大部分、[[トランシルヴァニア]]、
**ハンガリー王国を構成する領域:[[クロアチア王国 (1527年-1868年)|クロアチア王国]]、[[イストリア]]、[[ダルマチア]]
*[[ポーランド分割]]によって獲得:[[ガリツィア]]、[[ブコビナ|ブコヴィナ]]([[ガリツィア・ロドメリア王国]])
*イタリア関係:[[ロンバルド=ヴェネト王国]]、[[1860年]]まで分家が[[トスカーナ大公国]]を支配。
*[[1865年]]から[[1866年]]にかけて[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国]]のうちの[[ホルシュタイン]]
 
== 主要年表 ==
*[[1804年]] [[神聖ローマ皇帝]][[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]、[[オーストリア皇帝]]フランツ1世として即位
*[[1805年]] [[大陸軍 (フランス)|フランス軍]]、[[ウィーン]]占領。[[アウステルリッツの戦い]]
*[[1806年]] フランツ2世、神聖ローマ皇帝位を放棄。[[神聖ローマ帝国]]の消滅。
*[[1809年]] フランス軍再びウィーン占領。[[メッテルニヒ]]宰相に就任
*[[1810年]] オーストリア皇女[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー・ルイーズ]]と[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]皇帝の結婚
*[[1813年]] [[ライプツィヒの戦い]](諸国民の戦い)
*[[1814年]] [[ナポレオン戦争|フランス戦役]]。[[ウィーン会議]](-1815年)
*[[1815年]] [[ワーテルローの戦い]]。[[ドイツ連邦]]成立。
*[[1819年]] [[カールスバート決議]]
*[[1831年]] [[11月蜂起|ポーランドの蜂起]]
*[[1835年]] フランツ1世没。[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]即位
*[[1846年]] ポーランド貴族がガリツィア([[クラクフ]])で蜂起<ref>岩﨑(2017)p.277</ref><ref>渡辺(2017)pp.61-62</ref>{{要出典|date=2020年1月}}<ref group="注釈">代表的な通史・概説書『ドナウ・ヨーロッパ史』(山川出版社、1999年)の本文199ページにて「1847年のガリツィア蜂起」という記載があり要注意である。なお、「巻末年表」では1846年の項に「クラクフ蜂起」「ガリツィアの農民蜂起」記載。</ref>
*[[1848年]]
**[[2月24日]] パリ[[1848年革命|二月革命]]、革命の風潮がヨーロッパ全土に拡大
**[[3月13日]] ウィーン三月革命。メッテルニヒ亡命
**[[3月15日]] [[ハンガリー革命 (1848年)|ブダペストで革命]]
**[[5月18日]] [[フランクフルト国民議会]]開催
**[[6月2日]] [[プラハ]]にて[[汎スラヴ主義#第一回汎スラヴ会議(1848年)|スラヴ民族会議]]始まる
**[[10月6日]] [[ウィーン十月蜂起|ウィーン十月革命]]
**[[12月2日]] フェルディナント1世退位。[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]即位
*1849年
**3月 [[ロシア帝国陸軍|ロシア帝国軍]]、ハンガリーに介入
**4月 [[ハンガリー独立宣言]]
**8月 ハンガリー軍投降、[[コシュート・ラヨシュ]]亡命
**3月 欽定憲法(シュタディオン憲法)発布
*1851年 「ジルヴェスター勅令」(欽定憲法の失効)
*1859年 [[イタリア統一運動|イタリア統一戦争]]、[[ソルフェリーノの戦い]]に敗北。[[ロンバルディア]]割譲
*1860年 「十月勅書」発布
*1861年 「二月勅令」発布
*1864年 [[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]
*1866年 [[普墺戦争]]、[[ケーニヒグレーツの戦い]](サドワの戦い)。[[リッサ海戦]]。[[ヴェネツィア]]割譲。ドイツ連邦の終焉と[[北ドイツ連邦]]成立。
*[[1867年]] - ハンガリーと[[アウスグライヒ]](妥協)、オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。以後はハンガリー王国以外の領域がオーストリア帝国に。
 
以後の歴史は[[オーストリア=ハンガリー帝国#略年表]]を参照。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
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{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* [[岩﨑周一]]『ハプスブルク帝国』[[講談社]]〈[[講談社現代新書]]〉、2017年。ISBN 978-4-06-288442-6
* [[加藤雅彦]]『図説 ハプスブルク帝国』(新装版)[[河出書房新社]]〈ふくろうの本〉、2018年。ISBN 978-4-309-76272-2
* [[渡辺克義]]『物語 ポーランドの歴史:東欧の「大国」の苦難と再生』中央公論新社〈中公新書〉、2017年。ISBN 978-4-12-102445-9
* [[A・J・P・テイラー]]([[倉田稔]]訳)『ハプスブルク帝国 1809 - 1918:オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2021年。ISBN 978-4-480-51062-4
 
== 関連項目 ==
*[[ハプスブルク帝国]]
*[[神聖ローマ帝国]]
*[[ドイツ連邦]]
*[[オーストリア=ハンガリー帝国]]
*[[オーストリア帝冠領]]
*[[神よ、皇帝フランツを守り給え]]
 
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2025年10月27日 (月) 11:50時点における版

テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 過去の国 テンプレート:オーストリアの歴史

ファイル:Ethnographic map of austrian monarchy czoernig 1855.jpg
1855年のオーストリア帝国民族分布図

オーストリア帝国(オーストリアていこく、テンプレート:Lang-de、当時の公式表記は テンプレート:Lang)は、1804年の成立から1867年オーストリア=ハンガリー帝国への改組まで、オーストリアハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」と呼ぶ)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家である。

前身のオーストリア大公国や、ボヘミア王国ハンガリー王国などの同君連合国家群だった時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク帝国と総称される。

厳密には第一次世界大戦敗戦までオーストリア帝国は存続しているが、本記事ではアウスグライヒまでを扱う。

概要

17世紀初頭から続いた三十年戦争を経て成立したヴェストファーレン体制によって、オランダスイスの独立、神聖ローマ帝国内の諸邦に自治権が与えられるなど、神聖ローマ帝国の権力は低くなった。また、この体制によって、カトリック教会プロテスタント教会が対等な関係にあることが保証され、宗教国家としての神聖ローマ帝国は権威を失うこととなる。さらに18世紀オーストリア継承戦争七年戦争などによって、神聖ローマ皇帝の座を事実上世襲していたオーストリア大公国自体の弱体化などが重なったことによって、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかとなった。

また、その後のナポレオン第一執政期において、ナポレオン戦争によってダメージを負ったハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がるオーストリア大公国を中核とする支配領域(ハプスブルク帝国)をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。

オーストリア帝国の時代の前半はナポレオン戦争とその後のメッテルニヒ時代であり、後半は1848年諸国民の春」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半である。この時代はまたドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か、「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動いていた。広大な非ドイツ人地域の分離を前提とする大ドイツ主義はオーストリアには迷惑千万であり、さりとて自らが統一ドイツから除外されてしまう小ドイツ主義も論外、非ドイツ人地域も包含した中欧帝国構想は時代遅れというトリレンマ状態にあった。1866年普墺戦争にオーストリアは完敗して大ドイツ主義も中欧帝国構想も挫折、最終的にオーストリアは統一ドイツから除外される。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ人に次ぐ大勢力であったハンガリー系(マジャル人)との妥協アウスグライヒ)を選択し、1867年オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が発足した。

なお、二重帝国の成立後もオーストリア帝国は第一次世界大戦に敗戦するまで存続している。「オーストリア=ハンガリー帝国」とは、オーストリア帝国と、アウスグライヒによってオーストリア帝国から形式的に独立したハンガリー王国とによる同君連合の総称である。すなわち、アウスグライヒ以後もハンガリー王国以外の領域は引き続きオーストリア帝国であった。

領域

主要年表

以後の歴史はオーストリア=ハンガリー帝国#略年表を参照。

脚注

注釈

<references group="注釈"/> テンプレート:参照方法 テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

  • 岩﨑周一『ハプスブルク帝国』講談社講談社現代新書〉、2017年。ISBN 978-4-06-288442-6
  • 加藤雅彦『図説 ハプスブルク帝国』(新装版)河出書房新社〈ふくろうの本〉、2018年。ISBN 978-4-309-76272-2
  • 渡辺克義『物語 ポーランドの歴史:東欧の「大国」の苦難と再生』中央公論新社〈中公新書〉、2017年。ISBN 978-4-12-102445-9
  • A・J・P・テイラー倉田稔訳)『ハプスブルク帝国 1809 - 1918:オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2021年。ISBN 978-4-480-51062-4

関連項目

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